どうもよよよです
リタイアは弱者にとっての宗教になりえます、この場合宗教というのは生き方のルールのこと、他人に左右されない生き方をするにはまずはリタイアは前提です
人間関係、労働、能力、あらゆる市場において我々は競争に負け、そのままだと底辺でどこからも必要のない存在として屈辱を味わって生きていくしかない
しかしそもそもの話なぜこんな競争をさせられているかということです、自分が必死に仕事をして誰かを儲けさせ自分はわずかな報酬を得て、恋愛市場でスペックを競って戦えとせっつかれてるのも子供を作らないと国が繁栄していかないという自分以外の誰かの意思であってわたしの意思ではない、これらは他人が作った宗教だということに気づきます
皆さんはなぜこんな自分にまったく合わないルールで生きさせられているか、怒りを感じませんか?わたしは感じてます、なぜ他人に利用されるためのルールが全てのように生きなくてはいけないのか、そしてそれに怒りを覚えずヘラヘラしながら社畜や流れに身を任せ結婚なりをやってる人間こそバカなのだとすら思います
怒りを覚えたならルールを自分で変えてしまえばいい、世間の奴らが必死に遵守しているルールのほうを自分の人生から追い出せば、その時点で我々は底辺ではない、これは人間革命です
労働市場で安い月給でハゲの上司に無能と罵られながら働き、非モテでいたのでは、資本主義や家族制度などという既存のルールの否定も難しいということです
社畜しながら社畜ダセェとか言っても虚しいだけです
まず、弱者にとってリタイアとは既存のルールを破壊するための前提であり、そのうえで自身にマッチした独自のルールを作る必要がある、自分の宗教を作るのです、わたしは長いリタイアへの渇望の中で思い悩み自分の答えを一つ一つ出すことで、その境地にたどり着くことができました
まぁただ確かに他の弱者男性には無理じゃね、という気もします、競争に負けに負けた意志薄弱の人間が多いため、そこまで徹底できず路頭に迷って生き方迷子になったり、底辺のままでも既存のルールで生きたほうが自分の生き方について悩まなくていいぶんマシだと底辺非モテで弱者男性として居続ける人もいる
そうした弱者には指針を示してくれるという意味で、三大宗教のような宗教が必要なのだろうなと結論に至り、弱者には宗教が必要、という発言をした次第です
金を搾り取られるとあるが、それで生き方に悩まなくて良くなるのなら正直安い買い物では?旧統一教会のような5000万の壺買えとかは論外としても月1万円とかなら、孤独人間が参加できるコミュニティの月謝としては安いのでは?無職無能非モテの身寄りのない大人が参加できるコミュニティの少なさというかまったくの無さっていうのはリタイア済の身分で世間見回しても理解できる、最近の俺はそういう思考だね
そこでわたしのすごいところは人間関係もなく仕事もせず、心のスキマを埋める莫大な金があったり、宗教など心の拠り所があるわけでもなく、あらゆる既存のものに頼ってないところです
それは暗闇の中を明かりもなく歩くようなものです、たいてい世捨て人を気取ってる人間でもどれかはあります、まったく新しい自己の宗教の構築に成功しているのです
意志薄弱のあなた達にはそこまでやれというのも酷ですから、このブログを通して僕の背中を見させてあげて後ろを歩くを許可しますよ、ということです
なんかしょうもない仮定だな
俺に散歩ってつまらないと言わせたいだけの、「散歩が面白いなら、じゃあ散歩ぐらいしかできなくなっても散歩が面白いって言えんのかよ!」って、その小学生みたいな発展性のない質問になんの意味があるんだよ
それでお前の人生が豊かになるのか?質問ひとつとっても人間性が出る、聞いててこっちが恥ずかしい
ネットサーフィンという趣味がある、あらゆるサイトを周遊して世間ではどのような話題や流行りがあるか楽しむ遊び
それのリアル版が散歩なんだよ、変化を楽しみ、あるいは変わらないものを愛でる
散歩は発展性のない人間にはつまらないよ、言わば目に入ってくる光景からブレインストーミングを常に行うような能動的な趣味だからね、受動的に入ってくる情報から他人の足を引っ張ることを生きがいにしてる人にはつまらないかもね
最初の質問に関連しますが、資本主義というのも一つの宗教なのでそれを取り上げられることが苦痛な人もいるんですよ、全員があなたのような人間ではありません
宗教といっても定年になったら「はいこの会社から出ていってね」と尻を蹴り出される宗教です、それまで自分の生き方を示してくれた宗教に報いるために労働という名の信仰を捧げてきたのに追い出すだなんてそれこそ残酷ではありませんか?
しょせんあなたも、まだ働いてるからリタイアさえすれば自分の生き方ができて幸せになれるはずだと思い込んでるかもしれませんが、リタイアするのは本当に自身の生き方を決めるための前提条件でしかなくそれだけで幸福になれると思ったら大間違いなんですよ
むしろ生みの苦しみは全てそこから始まる、たいていの人間は自己の宗教を確立できず労働に再度洗脳されるために仕事へ戻っていく、リタイアで幸せになれるのは本当にごく一部の人間です
ましてや老人になれば世間の話題にはどれ一つついていけなくなり、出不精になり、友人も死んでいく、そんな中で老人になっても労働という参加できるコミュニティがあることはとても素晴らしいことなんですよ
労働の有用性にも気づいている人間こそ、正しいリタイアができるのです、有用性も含めてもリタイアのほうが自分には合ってると判断できて始めて後悔のないリタイアができる、それに気づいてないのはまだまだですね