セミリタイア老師 人生よよよのゆったり余生セミリタイアブログ

後進の育成も終わり、ひたすら死を待つブログ

社会人の褒め合う文化には居心地の悪さを感じる

どうもよよよです

Twitterとか見てるとどうにも居心地の悪さを感じるのは、褒め合う、認め合う文化に慣れてないからだと最近分かった

「〇〇さんやっぱすげぇや!」

「イヤイヤー、わたしは××さんのことを尊敬してますよ」

なんてやり取りを見てると、すごくモヤモヤしてしまう

もしかしたら本当に尊敬し合っているのかもしれないけど…まぁでもその可能性は低いだろう

工場で働いていた時のイヤイヤ参加した飲み会などでそういう光景をたくさん見てきた、おべっかの使い合い、ご機嫌の取り合い、様子の見合い…

(フン、コイツら思ってもない中身のない会話しやがって…)

と、感じてしまうのだ

会社でもおべっか使って、なんでネットでもおんなじことやってんだか…と思ってしまう

文字だけの付き合いで相手の人間性まで言及し始める世間の人間たち

例えば俺は毎日ブログを書いてるけど俺という人間のほとんどのことを君たちは知らない

でもそれでいいのだ、俺のことをよくしらないのに無理に褒めるのは逆に失礼なことだ

そうは思ってないけど、とりあえずそう言っとけばその場は丸く収まる、そんなことを繰り返すうちに社会人たちは嘘をつくことに罪悪感も恥も無くなってしまっている

そのクセが抜けずにネット内でも同じことをしているのだ

在職中、俺もそんな虚構社会に馴染もうとしたがついにそれは叶わなかった、俺は自分の気持ちに正直なまま無職になってしまった

まぁ大人になってから友人を作るまでにはそういう気を使う期間も必要なのだろう

面倒で俺はつい遠ざけてしまう、新たな友達も欲しいと思わないし

よくみんな平気な顔してやってるよ

社畜を煽る俺のことを君たちはひどいと言うけれど普段の君たちのほうがよっぽどひどいことをやっている

内心、なんとも思ってない相手にそこまで興味がある振りをできるなんて、下手をしたらトンデモなく相手を傷つける行為だと分かっているのだろうか

大人は欺瞞に溢れている、それを当たり前だと言うなら俺は幼稚な人間のままでいい

はっきり言って君たちは気味が悪いよ

そんな俺だから、読者から褒められても、まずは「ほんとかよ?」と疑いから入り、言葉の裏に隠れた皮肉などを考え始める

こんな風になってしまったのは、今までの人生で人に褒められることが極めて少なかったせいだと思う

他人から否定されるうち自分でも自分を否定し始めてしまい、そんな自分を褒めるやつの裏を考えてしまうようになった

俺みたいなのはどんどんねじ曲がっていくのだ

人をディスる言葉には真実しかないと思っているので、そっちのほうに居心地の良さを感じてしまっている

俺を認める、褒める人らの真意に怯えるくらいならストレートに悪意をぶつけられたほうがいい

それ以上の悪意はないのだと安心できる

今日も社会人たちは例え表面上でも褒め合い、認め合い、伸ばし合っていく、ドス黒い真意はしまわれたまま…

俺はその中には入れない、入りたくない

これからも物事を円滑に進めるためにアイツら嘘をつき続けていくのだろう

社会性のバケモノだ、モンスターだ

弱くて正直なただの人間の俺はアイツらから逃げることしか出来ない

表面上の付き合いに時間を使うくらいなら1人暗い部屋でゲームを1日中する人生を選ぶ…俺は弱くても人間であることを選びたい…