セミリタイア老師 人生よよよのゆったり余生セミリタイアブログ

後進の育成も終わり、ひたすら死を待つブログ

お前もまた他人の生きづらさを生んでる張本人だな

どうもよよよです

 


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以前も言いましたが最初の1年2年は無職生活とは言わないんですよ、ただのバカンス期間

環境が変わって解放感があるのは当たり前でその解放感バフ期間が終わったときに本当の無職生活になる

そこで不安になりサラリーマンに戻っていく人が本当に多い

お前それじゃサラリーマンのバカンスだろ、そんなんで無職語るなよ、と言いたくなる

問題は3年目が楽しめるかどうかだ、無職が日常になってからだ

それは当然心境の変化はある、いつまでも解放感を得続けられるわけではない

日常となった無職生活は高揚感が消え自分の人生と向き合う時間が増え、心の修行が足りない者は「自分は一生社会に取り残され一人の人生を歩んでいくのか?」と疎外感に支配され、居ても立っても居られず、あれだけ嫌っていた労働さえ欲するようになる

マジョリティに属せば何も考えなくて良いからだ、労働者、家族持ち、そういった属性に属せば自分の証明を社会がしてくれるようになる、牛のように何も考えず飯を口に放り込むだけの生活も立派な人とみなされる、ある意味マジョリティは怠け者だ

だけど無職は自身の人生の方向は自分で決めなくてはいけない、その壁が立ちふさがるのが3年目からの無職

そこからは指針は人それぞれで自身で見つけなくてはいけない、誰かに教えてもらうようなものでない

俺は3年目からは解放感で楽しむのではなく、日々の穏やかさを享受するようにしている

散歩中の風の流れ、一人部屋で趣味に没頭する、気持ちよく昼寝をする時間

そういった日常の中にでも自分の哲学を求めて研鑽を積む、つまり無職はだんだんと求道者のようになっていく

働いてなくても自身の中に積み上げるものがあれば飽きることはない

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最近はこうやって自分の生きづらさをアピールして他人を牽制するのがトレンドだよね

エックスのプロフィール欄に自分の病名をつらつらと書いたり、不幸な家庭環境生き様を書いてみたり、手札が強い人間が勝つカードバトルのようだ

まぁ仲間作りの一環として書いてもいいけど、この質問者?のようにそれを武器のようにして他人を牽制し始めたら人間性の終わりだなと思う

ああ、みんな色々あって辛いんだね、でいいじゃない?それで傷を舐め合うなら人間らしくていいなと思うけど攻撃し始めたら終わり

「俺は手帳持ちだけど?薬もこれだけ飲んで人生がこれだけ辛いんだぞ!お前なんか全然大した事ない!」

お前が辛いのは他人の生きづらさを認めないまさしくお前が言うような他人を抑え込む言動をはじめとした、抑圧的な世間の価値観のせいなのに、それを生きづらさを感じてるお前がやるわけ?じゃあお前も世間の奴らと一緒だね、お前もまた他人の生きづらさを生んでる張本人だな

まぁお前だけではないけどね、生きづらさを抱えてるはずの本人が他人の生きづらさを否定して世の生きづらさを助長させてる構図というのは

そうやって他人を抑え込んだ先に一体どんな素晴らしい世界が待っているのか教えてほしいものだ

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とくに精神疾患ではないが、リタイアにゲーマー気質が重要というのは確かにそうかもね

ゲームでもズルして楽に進み攻略していくのがとても好きだ、正攻法は大変だし工夫がないので嫌いだ

そのまま人生観にも当てはまると思う、設計者の思い通りにいくようなデザインされた人生は嫌だ、労働して結婚して子ども生んで…ふーん、デザインされてるねぇ

縛りプレイもゲームの華で、お金を使わない生活もそのままゲーム性となり、様々な工夫を生み出し生活に彩りを加える

俺は自分だけの攻略方法で生活を成り立たせたいという思いがある、ガスなし生活から住む所まで全部ひっくるめて自分自身でデザインして自分で決めたという納得感が重要

主体的でないとリタイア生活は面白くないと思う、受動的な人間は労働者として働いて他人の指示のまま生きていたほうが刺激があると感じるのだろう

もう少し世間の人らは自分自身を楽しませるために頭を使うべきだ、ゲームとしての娯楽自体もそうだが日々の生活にゲーム性を見出す審美眼を養うためにもゲームは有用だ