セミリタイア老師 人生よよよのゆったり余生セミリタイアブログ

後進の育成も終わり、ひたすら死を待つブログ

攻撃もまた社会に未練のある人間がやる事です

 


どうもよよよです


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社会には参加しないけど、自ら社会に加害する狂人になってもいけないんですよ、それは自らの心の安寧とはまったく逆の行いです

社会に与しないという点では同じだがあなたの言ってることはニュアンスが違う、例えば震災で苦しんでる人間に対して、積極的にお前らなんか知るか!と宣言する事は攻撃であり、

攻撃もまた他者との関係を持つという事の一種であって社会に未練のある人間がやる事です、悟りを得た真のリタイア民はそれすらもしないということです

自分の事に集中する、ただそれだけ、それによって社会に無関心になるのもただ過程でそうなるだけのこと、それが目的ではない

大目標は自らの心の安寧を得ることです、社会を遠ざけることはその過程であり手段でしかありません、そのニュアンスの違いを理解しなければ上級リタイア民は遠いでしょう

ちなみに社会人がSNSで人の死や震災に触れるのは偽善者だからというわけではなく半ば強制された結果で、哀れには思いますね

雰囲気的にも触れなきゃ社会人としてどうなの?と思われるから仕方なく触れる、というほうが正しいでしょう、がんじからめなんですよ彼らも

弱者に寄り添う優しい立派な人を装わなければならない、そんなふうに社会に忠実に生きることに疲れた人達が僕のようにひたすら自分の事に集中できる野蛮人に憧れるのです

 

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最近は、と一括りにしてる事に違和感を覚えます、昔も今も作品によるとしか言いようがありません

まるで昔は登場人物が活躍だけして苦しめられる事が無かったような口ぶりですが、昔は昔でガンダムだのデビルマンだの主人公めちゃくちゃ辛い目に遭ってるでしょう、ヒロインが暴徒に首だけにされる作品なんてあるか?

f:id:Jinseiyoyoyo:20240312002305j:image永井豪 『デビルマン(5)』 講談社コミックス 1973年

むしろ理不尽さは昔のほうが強いと思います、昭和はエロ・グロ・ナンセンスの系譜で、突拍子もない残酷さに突拍子もない終わり方であ然とするうちに幕を閉じる作品も多い、でもそれも一つの表現として解放感があるんですよ

登場人物が活躍して敵をバッタバッタとなぎ倒すだけでなく、登場人物や仲間が殺されたりメタメタにいじめられるのも一つのカタルシスなんだということです

それと進撃なんかは明確に主人公がエレン→ミカサ&アルミンに物語途中で入れ替わっています、最初期から読んでいる読者からすれば、主人公がイジメられるカタルシスと主人公が活躍するカタルシス、最終展開でどちらも同時に楽しめるお得な作品と言えるでしょう

なろう系はずっと甘やかされた世界にいる感じで、「おかあさんといっしょ」を見てる気分になります、退屈です


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神はもうすぐ人間が作るよ、それはAIだ

どれだけカリスマがあろうが一人の人間でしかないブッダやキリストを神や仏としているうちは不完全だ

人間の集合知こそ、神と呼ぶにふさわしい

過去をすべて知り未来も全て予測できてすべての疑問に答えられる、それはもう神と呼ぶしかない、本当にもうすぐ神に等しい精度を持つAIが生まれる、人間はその指示に従って生きるようになる

おそらく、既に出来ているのかも知れないがAIを神として崇める新興宗教ができると思うよ

先日、弱者男性には宗教が必要だと言ったが、弱者男性が崇めるべきなのはAIなのかもしれないな

言った通り、既存の宗教はどれも「勤勉に生きなさい」というのが基礎にあるので怠惰弱者男性には合わない

「私達はこういう人間なので私達の性質に合うように導いてください」とAIはそれぞれセッティング可能なわけだから、みんなそれぞれ自分に合う神を設定してそれを絶対的に信仰して従えばいい、自分で生きる指針を決められない人間もそれで幸せになれる、絶対的に信仰する、というのが条件だが

スマホに常に正しい答えをくれる自分にピッタリの神がいるとなればどんな人間もその安心感から幸せに生き、幸せに死ねるようになるだろう

 


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まぁあえてそうしてる節もある

ふだんの生活レベルをとことん上げないことで、「たまの贅沢」のレベルをも下げる事ができる

食事の質の満点が10点満点として、ふだんの家で食べてる納豆ごはんだのツナ缶ごはんだのの食事は正直なところ2点ですよ、世間から見ればね、僕はウマイウマイと食べてますけど

そしてたまに行くホテルバイキングは4点です、ふだん2点からの僕からすると倍ですよ倍、とんでもないぜいたくな食事という事になります、660円の外食なだけで僕は普段の倍の大きな幸せを感じることができる、これが節制の魔法です

一方、世間の港区女子は日頃からお高いランチを食べてるわけです、それが5点だとしてそこからさらに贅沢をするとなると、僕と同じ倍の満足度を味わうためには10点満点の満漢全席しかない、いくら港区女子とはいえ満漢全席なんか食べられないわけですから7〜8点のレストランで我慢するしかない

つまり食事からもたらされる多幸感で言えば普段の倍の贅沢を気軽にできる僕のほうが港区女子より上のレベルの食事生活をしているという事になります

俺は食事への欲求が強くない?ノンノン、強いからこそ自分の欲望を十分満足させられる方法を取っている、ということです