セミリタイア老師 人生よよよのゆったり余生セミリタイアブログ

後進の育成も終わり、ひたすら死を待つブログ

クズな社会には、自分もクズになることで応戦だ!

どうもよよよです

三浦春馬さん「役者をやめて農業の道へ」追い詰められた過去(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース

あまりの忙しさに「自分の許容範囲を超えてしまった」と明かし、ドラマの撮影が休憩に入った際に「役者をやめて俺は農業の道に行こう」と携帯で「農業学校」の検索を始めたという。  当時は「とにかく今の状態から逃げ出したい、故郷(茨城)へ戻りたい」と思っていた。だが、このときは母親に説得されて思いとどまった。 『ブラッディ・マンデイ Season2』の撮影では、まったく台詞を覚えられずに現場に入りし、監督から「おまえ、座長(主役)なんだから」と叱られたという。  だが、その言葉で「なんて自分は無責任だったんだろう」と反省。「芝居で主役を担うこと」の意味を理解し、精神的に強くなることができたと明かしていた。

過労のせい、ネットの誹謗中傷のせい、原因は勝手にネット民が探偵気取りで予想していたが、今となっては誰にも分からない

いずれにせよ、彼は状況からの脱却を望んでいたが、それができなかった

「農業でものんびりやりたい、逃げ出したい」

まさにセミリタイアで救えた人だったが、追い詰められて辛かっただろう

このブラック国家日本には生真面目な人間を殺すトラップが多すぎる

無理にでも逃げれば良かったのに、と悠長な他人は思っても、人を逃げられなくするシステムだとかやり込め方だとか自己責任論の考え方を刷り込まさせること、そんなことばかり日本の上層の人間や組織はとても上手だから、自分だけ逃げるという考えに至らない

時間が経って気づいたとしても、その頃には自分がいないとたくさんの人間の食い扶持が無くなるような立場になっていて、それに当然応えてくれるだろうというそれこそ無責任な期待をかけられ、周りの状況や人達にがんじがらめになってますます逃げられない

生きたまま逃げようとすれば、「自分勝手」「無責任」の烙印を押されどこまでも責められるから、逃げるには死ぬしかない

責任とかいう言葉のキモさたるや、他人を都合よくコントロールする時以外に「責任」という言葉が使われることがあるか?「責任」を多用する人間に近づいてはいけない、君を殺そうとしている

苦境を乗り越えるたびに精神的に強くなる?

人が精神的に強くなる、という概念自体、存在しないんじゃないかと思う

ただ際限なく、心が麻痺するだけ、防衛本能が働いて考えないようになるだけ、でも表面的には考えないようになっても奥底にはヘドロのようなストレスが蓄積していつか満杯になる

精神的に強くするためだから、などとありもしない架空の概念を作り出して、他人により多くの苦労やストレスを与えても問題にならない風潮を自称「人生の先輩」たちは作り出している、クソオブクソ

現代では組織だったり上層の人間が、「お前の責任だ」とか「お前の成長のためなんだ」とか、本当は組織や自分の利益のためなのにも関わらず、個人の問題にすり替えて他人を都合よく動かそうとするのが最高にキショい

生真面目や優しい人間を死なせて「あいつは心が弱かった」で済ませるジャップ型労働は社会として断固批判されるべきだが、個人も自分で身を守る方法を身に着けなければいけない

具体的にはクズになることだ

三浦さんは真人間過ぎた、社会がまともならそれで良かったのだろうが、真人間ほど社会の至らない部分のダメージをもろに受けてしまう

その点、社会的にクズ人間となれば、社会から見下されがちではあるが、「誰のなんの役にも立てない」というのは「誰にも利用されない真に自由な人間」ということなのだ、ものは考えようだ

「なんとか自分ではなく組織のせいにできないだろうか?」「自分一人ぐらいちゃんとやらなくたって平気だ」「もっと楽して金を稼ぎたい」「読者になんと言われようと受け取れる給付金は全部もらっちゃおう」

そういう強かさがクズな現代社会を生き残る秘訣だ、自分ばかりが犠牲になる必要はない

ボーイズ・ビー・クズ、少年よクズになれ

クズな社会には、僕たちもクズになることで応戦するしかない

僕を見てみろ、仕事をせず税金を払わず権利だけは主張、偉そうに頑張る他人にマウント、クズ以外の何者でもないが俺がクズであればあるほど俺ほど自由な人間はいないのだ

三浦さんに俺のクズ成分の1割でもあったら…もしかしたら社会や世間に殺されずに済んだのかもしれない